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五番町〜別名北新地・西陣新地

昭和50年当時の五番町

五番町の名は秀吉が聚楽第を造営するとき幕下の組屋敷を一番より七番まで作ったのが地名として残ったものである。古名は「内野新地」別名を「北新地」「西陣新地」とも言いました。

ここにお茶屋が出来たのは享保年間(1716〜36)で上七軒の出店と言う名義で作られ北野や愛宕に参詣する人たちを対象にしていたがその後徐々に発展していって西陣の職工などの遊行の場となった。戦後の最盛期には100軒のお茶屋と300人近い娼妓がいたが昭和33年の売春禁止法によりお茶屋93軒は旅館業に転業、210人の娼妓はちりぢりになっていった。

現在、五番町界隈は古い家が壊されその跡に新興の1戸建て住宅が建ち並び、往時をしのぶ風情はほとんど見当たらないが、ちょっと中に入ってみると格子戸の一見して、ああーちょうどこんな雰囲気だったのかな〜と思わせる家や棟続きの二階の手すりに面影を見つけることが出来る。

水上勉氏と五番町夕霧楼

自身、学生時代に堀川下長者町の染物師の家に下宿し、昼間麦わら膏薬の行商人をし、自転車で荒物屋や薬局を廻り、苦労して立命館大学の夜間部で学ぶが学費が続かなかった。

五番町の「石梅」 「五番町が私の青春の町であった・・・といえば人は私をヒンシュクするだろう。私をヒンシュクスル人にはこの文章は無用である。私は二十一歳になるまで京都で暮らし、その青春の全部を五番町に埋めた・・・・夕霧楼という妓楼は空想だが私が行った「石梅」や「奥村楼」がミックスされてあんな妓楼になった・・・」
(随筆「ああ京の五番町」より)

と語っている。

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