平安京以前の北野
京都盆地
100万年〜200万年前京都は陥没した湖の底でした。 人の出現は後期旧石器時代の3万年前ぐらい 北野白梅町周辺からも竪穴式住居跡や旧石器が出土しています。
北野廃寺
昭和11年北野白梅町付近で市電西大路線新設工事の際に遺物が発見され北野廃寺と命名されました。昭和52年の発掘調査で「鵤室(いかるが)」の墨書のある平安時代前期の陶器が発見され 「いかるが」・・・大和国斑鳩の法隆寺・・・聖徳太子「日本書紀」には推古11年秦河勝が聖徳太子より仏像を授かり蜂岡寺(のちの広隆寺)を造営したとあり、ゆえにこれが北野廃寺ではないかと考えられています。 また「秦立」の墨書のある土器も発見されています。 広隆寺の「広隆」は秦河勝の実名「広隆」からつけられたと言われています。
一方で北野廃寺は平安時代桓武天皇によって建立された常住寺(野寺)ではないかという説もあります。昭和54年の調査で、「野寺」の墨書のある平安初期の土器の発見がその根拠になっています。いずれにしても今から2〜3000年前、いま私たちの住む北野のすぐ近くで古代の人々が穴を掘り木を組み立て萱、わらを葺いて住居を作り、野山を駆け巡り魚や木の実を取って生活していた事を想像するだけでも何かわくわくしませんか・・
秦氏と京都
古来、人の歴史をふりかえるとそこには必ず地の利・水利の重要性がうかがえます。
秦氏が渡来してきたのは5世紀ごろ、その祖は弓月君(ゆづきのきみ)と呼ばれ、新羅、百済から120県の人々を率いて渡来したと言われています。京都盆地は弥生時代以来発展し続けてきましたが桂川・淀川の氾濫と言う悩みをもっていました。それを克服したのが治水、灌漑の技術に長けた秦氏であり、一族の発展の原動力にもなったと思われます。他にも養蚕、機織り、建築・・・・と 殖産的豪族として技能・財力を利用しその地位を不動のものにしていった様です。 秦氏のホームグラウンド太秦には養蚕と織物の神を祀った「蚕の社」や河勝の祖先を祀ったと思われる古墳時代後期七世紀ころの全長75Mにも及ぶ前方後円墳「蛇塚」が住宅街の真っ只中に今はむきだしの巨岩を積み重ねた形で見る人を圧倒します。
年代は変わってきますが 秦河勝の他にも松尾社を創建した秦都里、稲荷社(伏見稲荷大社)を創建した秦伊呂具その一族、そのグループの広がりは西日本から近畿地方はもちろん東北までかなりな勢力でその地域、地域において活躍していた事がうかがえます。






