北野今昔ものがたり >

古地図に見る北野

形をよく残したお土居堀(北野天満宮西側) 元和六年(1621)〜寛永元年(1624)に作られたと思われる最古の京地図「京都図屏風」を見ると秀吉による城郭都市つくりへのお土居がしっかりと描かれている。すでに破却された聚楽第であるが「聚楽」の文字とともに城郭を示す堀は明確に示されている。

聚楽第から北野に向けて周辺は畑に囲まれながら松並木に沿って右近の馬場、左近の馬場が平行に走って、乗馬の練習や馬の調教・訓練がおこなわれていた?ことがわかる。そういえば菅原道真は学問はもちろんだが武道特に弓道の名手でもあった。

お土居の見られる元和・寛永時代の古地図

元禄14年(1701)の地図では七本松中立売南東部に「的場」の記述、元禄14年頃は「内野新地」の遊里として官許されており、その出入り口として現在の三軒町、東町、双方に江戸で言う「矢場」「射場」のいわゆる社交遊技場があったと思われます。宝永六年(1709)の「京絵図」では七本松通りのお目見えとともに七本の松の絵が現在の三角広場界隈に書かれていることはその由来によるものか。
寺々の移転や新造も増え、具足山立本寺も出町枡形から移転して来ている。

ちなみに今なお、枡形には立本寺前町の地名が残っている。周辺には住宅がかなり増えてきている。

立本寺の南、七本松より西一帯は「内野新地」の記載がみられ、荒れた野原の風景が広がっていた様子がうかがえる。1708年宝永の大火、1730年西陣焼けの大火・・・の影響であろうか。
天保2年(1831)「京町絵図」では北野天満宮の周辺を中心に「宮仕」の記述が多く見られるが宮司の館であろう。

明治2年の地図ではそれまで曼殊院門跡やその他の公卿社寺とりわけ天神ざむらいの領地であった仁和の一帯は東部は上京九番組、西部は上京八番組となって学区編成への基礎となっていく。町衆の力の結集で文明開化の「小学校」を建設したことは今尚、生きて活発な区民活動につながっています。