北野今昔ものがたり >

宮本武蔵・吉岡一門決闘の地

一乗寺下り松 直木三十五と吉川英治の文壇論争を引き合いに出すまでもなく、宮本武蔵像を把握するのはその残された資料の少なさゆえに、なかなか大変なことです。

現在では小説「宮本武蔵」が吉川英治氏によって世に出されて以来、テレビ、映画・・・・とたびたび登場するに及んで、その内容が歴史的事実と一般の人々には受け止められてしまいました。

一乗寺下り松北野説

吉川英治氏は「随筆宮本武蔵」の中で、一乗寺下り松決闘の地も参考資料として「二天記」「小倉碑文」に掲げるわずか一行の「京洛東北ノ地、一乗寺藪の郷下り松二会して闘フ・・・・」を唯一のよりどころに後は作者の創作であることを認めています。

これに対して地元の郷土史家である竹村俊則氏は国学者 柏崎永以の著「古老茶話」の中の「一乗寺下り松が北野七本松である」との説や「雍州府誌」巻八にも「北野ノ七本松コレマタ下り松ト称ス」と書かれていること、また北野は「北野の松原」と称し、千本の松があったこと(現に近年まで七本松中立売西北に大きな古松が存在した)。
中世、出雲阿国の歌舞伎踊りや秀吉の北野ノ松原の大茶会など衆人が多数集まっての遊興の地としての雰囲気は、たとえそれが事実でなくても試合の場所としてはふさわしいのではないか。
さらにここは一条通りの西端で「一条下り松」をあやまって「一乗寺下り松」となったのでは?と推察している。

さてさてみなさまはいかがお思いか?

詩仙堂の裏山から洛北修学院を見下ろしてあるいはまた北野七本松から下の森方面を天神さんに向かってはるか昔を想い・・・想像してみませんか?